お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。
「あら、お母さん、それは夢よ。
この二人の会話に於いて、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。
母は、言葉の上ではまるで夢想家のようなあんばいだし、娘はその夢想を破るような所謂現実家みたいなことを言っている。
しかし、母は実際のところは、その夢の可能性をみじんも信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言えるのであって、かえってそれをあわてて否定する娘のほうが、もしや、という期待を持って、そうしてあわてて否定しているもののように思われる。
世の現実家、夢想家の区別も、このように錯雑しているものの如くに、此頃、私には思われてならぬ。
私は、この世の中に生きている。しかし、それは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。
私だけの場合を、例にとって言うならば、私は、この社会と、全く切りはなされた別の世界で生きている数時間を持っている。それは、私の眠っている間の数時間である。私はこの地球の、どこにも絶対に無い美しい風景を、たしかにこの眼で見て、しかもなお忘れずに記憶している。
私は私のこの肉体を以て、その風景の中に遊んだ。記憶は、それは、現実であろうと、また眠りのうちの夢であろうと、その鮮やかさに変りが無いならば、私にとって、同じような現実ではなかろうか。
私は、睡眠のあいだの夢に於いて、或る友人の、最も美しい言葉を聞いた。また、それに応ずる私の言葉も、最も自然の流露の感じのものであった。
また私は、眠りの中の夢に於いて、こがれる女人から、実は、というそのひとの本心を聞いた。そうして私は、眠りから覚めても、やはり、それを私の現実として信じているのである。
そのような、私のような人間は、夢想家と呼ばれ、あまいだらしない種族のものとして多くの人の嘲笑と軽蔑の的にされるようであるが、その笑っているひとに、しかし、笑っているそのお前も、私にとっては夢と同じさ、と言ったら、そのひとは、どんな顔をするであろうか。